栄光の西鉄ライオンズ

昭和の男子の遊びはほとんど野球だった
テレビ観戦ではプロレス、キックボクシング、相撲、
豊登、サンダー杉山、ビル・ロビンソン、沢村忠、大鵬、柏戸、清国
そんな中 福岡県人の野球の楽しみは西鉄ライオンズだった
優勝への期待は薄れていた時期だったけど毎試合楽しみにしていた
当時ダブルヘッダーの試合も行われていた
池永正明が投げる
稲尾和久が押さえる
東尾修が投げる
アンダースローの永易将之が投げる
豊田泰光が打つ
中西太がホームランを打つ

当時テレビ中継は無くラジオの実況を聴いていた
弱いライオンズが勝つことを祈って

そして大事件が起きてしまった
”黒い霧事件”(1970)
野球賭博に加担した多くの選手が永久追放された
なかでもエース池永正明の永久追放は西鉄ファンのみならず多くのファンはショックを受けた
2005年日本野球機構は池永に対する処分を解除することを発表 35年ぶりに復権した

あの”黒い霧事件”の影響で経営不振に陥りついに身売りとなった
そして太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズと球団名は変わりついに1978年国土計画へ売却 球団名を「西武ライオンズ」と変更され本拠地は埼玉県所沢市へ移転した

この時の福岡県人のショックは計り知れない
福岡からプロ野球球団がなくなったのだから
どこの球団を応援して野球を楽しめば良いのか

当時私は埼玉に居たので西武ライオンズを受け入れようとしていた
でも心から応援する気持にはなれない
西鉄ライオンズのファンなのだから

10年後1989年南海ホークスがダイエーに買収され本拠地を福岡市に移転し「福岡ダイエーホークス」が誕生した

この時も福岡県人は微妙だった
最大のライバル 今まで敵としていた南海を急に応援出来るのか?

しかし強くなっていくうちにファンは増えていった
そして「ソフトバンクホークス」になった今はこの球団を地元の球団とほとんどの人が認めている
西鉄ライオンズのファンはどう思っているのだろうか
でも福岡に球団が来たことはうれしく思っている
テレビでホークスを応援できるのだから

栄光の歴史「伝説の西鉄ライオンズ」

プロ野球は昭和25年(1950)、2リーグ制が導入された
前年までの1リーグ制が、毎日の参入を機に分裂した
パ・リーグには、南海、大映、阪急、東急に、毎日、近鉄、西鉄の3チームが加わった
セ・リーグには、巨人、阪神、中日、松竹に西日本、国鉄、広島、大洋の4チームが加わった

(会社名、スポンサー、本拠地、)
パ・リーグ
南海ホークス;南海電気鉄道、大阪市、大阪球場
大映スターズ;大映、東京都文京区、後楽園球場
阪急ブレーブス;京阪神急行電鉄、兵庫県西宮市、阪急西宮球場
東急フライヤーズ;東京急行電鉄、東京都文京区、後楽園球場
毎日オリオンズ;毎日新聞社、東京都文京区、後楽園球場
近鉄パールス;近畿日本鉄道、大阪市、藤井寺球場(デーゲーム)、大阪球場(ナイター)
西鉄クリッパース;西日本鉄道、福岡県春日市、春日原球場
セ・リーグ
読売ジャイアンツ;読売新聞社、東京都文京区、後楽園球場
大阪タイガース;阪神電気鉄道、兵庫県西宮市、甲子園球場
中日ドラゴンズ;名古屋野球株式会社、中日新聞社、名古屋市中日スタジアム
松竹ロビンス;松竹、京都府京都市、衣笠球場、(1952年終了後大洋と合併)
西日本パイレーツ;西日本野球株式会社、西日本新聞社、福岡市平和台球場、
国鉄スワローズ;株式会社国鉄球団、東京都文京区、後楽園球場
広島カープ;広島野球倶楽部、広島市、広島総合野球場
大洋ホエールズ;大洋漁業、山口県下関市、下関市営球場

昭和25年(1950)、福岡に西鉄クリッパーズというニックネームでパリーグに新チームが誕生した
昭和25年(1950)シーズン終了後セリーグの西日本パイレーツ(親会社:西日本新聞社)を吸収合併
昭和26年(1951)、西鉄ライオンズとなり、本拠地・平和台球場で多くの伝説を創った
1951年から”知将”三原脩監督のもと強化を図った
1953年、打撃陣は新人豊田泰光、2年目中西太が成長 
投手陣は川崎徳治を中心に新入団の西村貞朗、河村英文などから「野武士軍団」が始まった
1954年から1958年の5シーズンで4度の優勝、2位1回と最強の「西鉄黄金期」となる
特に1956年からの3連覇は西鉄の荒々しく野武士のような魅力的なチームとして伝説となった
特に1958年は記憶に深く残る年となった
南海ホークスにシーズンで10.5ゲームの大差をつけられていた
8月以降西鉄は驚異的な勝率で南海を追い抜き3連覇を達成した
巨人との日本シリーズはさらに伝説を生んだ
2年連続で三原監督率いる西鉄に敗れていた水原監督率いる巨人が闘志むき出しで巨人の3勝0敗と一方的な展開となる
雨で流れて順延となった第4戦、巨人に先制されるも豊田泰光、稲尾和久の活躍でようやく1勝を手にする
「稲尾を休ませるために故意に雨天順延とした」と水原監督は訴えたが中止は変わらず翌日の西鉄の1勝に繋がった
稲尾和久は第1、3戦と先発しており順延がなければ第4戦で快投出来なかったかもしれない
第5戦初回3点を先制された西鉄は、7回裏中西太が2点本塁打を放ち、9回裏2死3塁で関口清治が起死回生の同点打を放つ
10回裏打者稲尾和久の放った打球はレフトスタンドに突き刺さり、サヨナラ本塁打となった
第6戦、西鉄の先発はまたしても稲尾和久
 このシリーズ最高の投球で、見事に完封勝利をおさめる
第7戦、西鉄の勢いは止まらず巨人を圧倒し、見事に3連敗のあとの4連勝を達成した
西鉄ファンのみならず、プロ野球ファン、スポーツファンの目に焼き付いて離れない強烈なものとなった
稲尾は7試合中6試合に登板して5試合に先発し4完投、第3戦以降は5連投を投げ抜き26回連続無失点も記録しシリーズMVPと最優秀投手を獲得
地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った

1959年三原脩監督、大下弘がチームを去ったことに加え、腱鞘炎を患った中西太の不振が響き、徐々に衰退の気配を見せた
そのなかでチームを支えたのが”鉄腕”稲尾和久
稲尾和久はこの5シーズン(1959~1963)で145勝を挙げた 特に1961年には42勝を挙げ西鉄を引っ張った
1963年には中西太監督の下、5年ぶりの優勝を果たす
この優勝が西鉄の最後の優勝となる
1964年西鉄を支え続けた”鉄腕”稲尾和久の肩が悲鳴を上げた
それでも稲尾和久はリリーフという形で復活し、エース格に成長しつつあった池永正明とともにチームを支えた
1968年西鉄は低迷の一途をたどる
1969年シーズン終了後、稲尾和久、中西太が引退を表明し”野武士”と呼ばれた選手が次々と西鉄を去った
さらに球界「黒い霧事件」が報道され、エース池永正明をはじめ主力選手の多くがチームを離れ、戦力低下は著しく、西鉄が復活することはなかった
1972年~1978年
親会社、経営母体やスポンサーが変わったことにより”西鉄ライオンズ”→”太平洋クラブ・ライオンズ”→”クラウンライター・ライオンズ”→”西武ライオンズ”と3度の名称変更が行われた
1975年には東尾修や白仁天、土井正博の活躍により通年3位と復活を期待させた

(参考:Lions 監修:杉山茂 )

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